尾燈去ル

生きるための記録。

痛み, 傷み, 悼み

心と身体を傷める。生の痛みを知り、そして他者を悼む。

 

連休のないゴールデンウィークの合間を縫って、郊外へ獨り、ツーリングへ行った。

特段の物見遊山もせず、バイクから流れる景色を、淡々と愉んだ。

2速で舗装された小径を走っているときに、砂にタイヤを取られてステッと転けた。

右膝に4cmくらいの挫創を作って、帰宅してから3針縫った。

それから、ドラッグストアで買ったテープ包帯をぐるぐると巻いて圧迫した。

 

翌朝、テープ包帯を剥がすとき、毛が引っ付いて滅茶苦茶に痛かった。滅茶苦茶に。

縫合よりも余程痛い。激痛の腹痛に無神論者も神に祈るときの様な感じ、というのは、奇天烈な喩えか。

 

仕事柄、

「痛くないですか?」「痛いですけどもう少しですよ」「少し痛いけど頑張って下さいね」

この種の言葉を私は日頃よく使う。

医療用のテープを剥がす時(リムーバーを使っても)患者さんが顔を顰めたり、激痛を訴えることも屢々。

 

その訴えを何度も看てはいるから、

「強力なテープなので痛いんですよね。すいませんね」

とかなんとか言っている私であったが、今日初めてその痛みを、身を以て体験した。

無茶苦茶に痛い。無茶苦茶に。

 

結局のところ、痛み(傷み)というのは、経験しないと解らないものなんだ。

 

人に身体中ボコボコに殴られなければ、全身打撲の傷みは解らないし、タトゥーを彫らなければ、肌を削られる傷みは決して解らない。

誰も知らない途上国を獨りで彷徨わなければ、その心細く惨めな痛みは解らないし、大切な人を喪わなければ、溢れ落ちてしまって、もう取り戻せないこころの痛みは決して解らない。

 

つまり、言葉や客観と、経験することとの間の絶対的な差異というのは、決して埋められない。

 

だから、私はそんな経験を誇ろうと思った。

せめて誇ろうと思った。心の痛みも身体の傷みも。

そしてまた、解らない(経験のない)痛みに対して、決して解り得ないことを理解しつつ(解ったふりせず)、せめても理解しようと努めたいと思った。

 


Klaus Nomi / You don't own me