尾燈去ル

生きるための記録。

ダブルバインド

医者として働き始めて一年ほど経った。 先日オーベンの先生と旅の話をしていた折、このブログの散文を見せたら面白がって下さったので、近況を久し振りに書いてみようかと思った。

 

この一年の間に医学的な知識は、順調に抜けていった一方で、仕事の雑務的知識は増した。当たり前だけれど。 研修医というものは学部生の臨床実習とは違って医療者であって、取りも直さず労働者であって。医学と医療は違うんだなぁというのが、安直ながら率直な今の自分の感想である。 働き出して思うことは、勿論他にも色々とあるのだけれど、取り敢えずは隅に置いておく。

 

最近、公の事象に対する関心が頓に薄くなった事を自覚する。スポーツや政治の話題に対して、以前ほど熱中出来なくなった。関心がない訳ではないのだけれど、世間的にかなり大きな事象を遅れて知るような事も増えた。その時の感想も、ああそんなものか、という程度のもので深く感情を動かされる事はあまり無くなった。

だからといって、私的な事象に対する関心は変わらない。余剰の金を費やす趣味は相変わらずだし、本や映画の娯楽は変わらず愉しめるのだから、別に鬱の前兆の様な訳ではないと思う。

要するに、自分の中で、公的な事象への関心が私的な事象への関心にシフトしていると感じる。それが一般に社会人として仕事に忙殺されるからなのか、あるいは医者として一日の大半を無機質な医療施設で過ごす特殊な条件からなのかは、よく判らない。

しかし、考えてみれば、老いとはそういうものなのだろうなと思ったりもする。歳を重ねるにつれて増えるのは、健康だったり家庭だったり私的な事象への関心である。人生の終わりに訪れる死は、他でもなくこれ以上なく私的な事象である。たとえ死に大義があったとしても、死が生命現象である以上、死は完全に私的な事象であると思う。

 

こんな様に昨今、関心がどんどんと私的な事象に移っていく、言い換えれば歳を取る自分を自覚していく中において、一方でそういうものかと受け入れる気持ちがあり、またもう一方でそれに抗おうとする気持ちが湧いてくる。正しくは、抗おうとするという程には積極的ではないのだが、抗えというサインが発せられているように感じられる。

一般化すればそれはつまり、ある向きへの志向を自覚した時、それを自覚したという事実は、また同時に真逆の向きへの志向を促すサインなのではないかと感じられる。様々な問題において、自分はこのような思考にこれまで何度も何度も陥った。その度に既視感を覚え、ああまたこの思考だ、と思った。

 

最近、たまたま読んでいた本である言葉に出会った。

ダブルバインド(Double bind)

ダブルバインドとは、日本語訳で「二重拘束」という意味です。 二つの矛盾した命令をすることで、相手の精神にストレスがかかるコミュニケーションの状態です。 矛盾したふたつの命令を親から指示された子供が、矛盾を親に指摘できず親に服従せざるを得ない事例などがあります。

 

まさに自分が陥っていたのはこれだった。

ただし自分の場合には、自身に対してのもので、いわば self-Double bind (自己二重拘束) なのだが。