私は人生で二度、所謂 “宗教的直感” を経験した。
1度目は、大学を休学して東南アジアやインドを放浪していた時のことだ。
バンコクに居た。日本を発ち、一月余が過ぎていた。当初の緊張感は緩み、やや愚鈍な旅になってきた頃合いだった。また、自分だけが生き遅れているという焦りもあった。
自分は果たして日本に帰るのか、それとも印度か中東あたりで野垂れ死ぬのも良いな、本気で迷っていた。とても孤独だった。
バンコクは大都会だったし、タイは仏教国だから地方でもどこでも皆、人がとても優しかった(そう信じていた)。一方で、それらは日本人の一旅人に対する優しさであるとも気づき始めていた。
そんな頃、バンコクにあるLoha Prasatという名の、お城のような形貌をした寺院を訪れた。
それほど有名な観光名所ではなかったからか、他の場所のように欧米人の観光客はほとんど見なかった。
私は、雲ひとつないバンコクの青空の下、間伸びした午後の時間を、その開放的な寺院の中を散策していた。螺旋回廊が天辺まで続く寺院の廊下を歩くうち、午睡に入るような意識と無意識が混在した不思議な気分になった。“walking meditation”という看板が目についた。どうやら、ここはそういう場所であるようだった。
その不思議な意識の混在状態の中で、いつの間にか私の眼から涙が溢れた。それは驚くほど止まらず、溢れ続けた。同時に、今まで感じたことのない至福を、全身あまねくで感じた。只の概念に対する名であった筈の仏の存在を、全身で抱かれるようにして感じた。
2度目は、職場でのパワーハラスメントにより休職をしていた時だった。
居場所がなかった。宗教的興味、また一方でコミュニティ探しというプラグマティックな理由でこれまで一度も訪ねたことがなかった近所のキリスト教教会へ足を踏み入れた。
始めのうち、教会はこういうところだろうな、と想像していた通りの場所だった。同じ信仰を持ったものが集う、街の中にこういう神聖な場所があることはなんとなく知っていたけれど、いざ足を踏み入れると本当にあったんだ、という気持ち。
牧師の説教が始まった。聖書の一節とその解釈を述べる形式で、次第に牧師の言葉が熱を帯びた。目を閉じ話に没入していると、一つの物語を同じ信仰を持った“我々”が聴くことによる一体感、安心感が満ちた。そして、遂に牧師の口を通して身体に伝わる言葉に主を感じるに至った。それは、想像を超えた経験だった。
ふと目を配られた冊子に落とすと、